ヨーロッパ編 雑記

#1 旅の始まり【出発・ミュンヘン編】

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キンとなる耳。寝すぎたとき特有のあの、なんとも言えない気怠さと眠気に耐えながら、僕は着陸態勢に入った機内で少し伸びをする。シートベルトで締め付けられたおなかが少し苦しい。窓の外に流れる恐ろしいほど深い緑に思わず目を奪われる。これから始まる旅への期待が吸い込まれ、僕の心には不安がふつふつと湧き上がる。ミュンヘンの上空を飛ぶ飛行機は風に揺られながら右へ左へ機体を揺らしている。二度の大きな旋回を終えた機体は徐々に高度を落とし、ミュンヘン国際空港へと無事、着陸をした。荷物を下ろし、飛行機から出る通路へ並ぶ僕はここまでの短い道のりを思い返していた。

「どちらへ行かれるんですか」

およそ11時間前。僕は成田国際空港発の飛行機に乗り込み自分の座席に腰を下ろしていた。慣れない東京でのトランジット。始めての一人での海外渡航。電車を乗り間違え、大慌てでスーツケースを引きずりながら成田国際空港へ到着し、そのままの勢いで搭乗手続きと手荷物検査をすませて僕は何とか予定通りの飛行機に乗り込むことができた。機内に乗り込み、自分の座席を見つけると、やっと落ち着くことができると思わずため息が漏れる。手荷物のリュックサックを上の収納棚にしまうか迷いながらも結局足元に置き、若干狭い足元。3+3+3の1列9座席もある、大型ジェットの真ん中の通路側に腰掛ける。いよいよか。そんなことを思いながら、いまいち実感の湧かない、ふわふわした雲に腰かけたような気持ちでいたときのことだ。

隣にいた青年に僕の緊張が伝わったのだろうか、優しい口調で声を掛けてくれた。

「ドイツのミュンヘンに行きます。ドーハで乗り継ぎです」

「そうなんですね。僕は今からマドリードに留学に行きます。どうしてミュンヘンに行かれるのですか」

「実は旅行でヨーロッパを回ろうと思ってまして……」

彼はルイと名乗った。都内の外国語大学に通っており、専攻しているスペイン語を学ぶため、一か月間の語学留学をしに行くらしい。離陸のアナウンスが放送され、飛行機の先が東京の夜空へ向かって猛進しているころには僕たちはすっかり打ち解けていた。

「一人旅いいですね、僕もしてみたいです」

「僕は留学がすごく羨ましくて……。大した理由もなく理系大学に進学したものの思った以上に大学が忙しくてなかなか留学に行くような感じでもないんですよね」

「僕の大学は結構休学してまで留学する子は多いんですよね。実は僕も一年休学していて……」

「いま何年生ですか?」

「三年生です。カイト君は?」

「僕も三年生です。僕は一年浪人をしていまして……。ん、ということは実は同い年なんですね」

ここから僕たちの間の距離が縮まっていったのは言うまでもない。空で出会った始めての友達という、神秘的なシチュエーションも相まって最高の旅のスタートだと確信した。機内食のおいしさに感動しつつ、サービスのビールを飲みながら僕たちの会話は弾む。二時間ほど喋り倒し、機内モニターで映画を観ていると、いつの間にかルイは寝落ちしていた。すでに照明は落とされていて、真っ暗な機内。僕も寝ようとするが、朝から続く腹痛が僕の睡眠を妨げる。幸いにも僕の座席はトイレの目の前だったため、トイレの空き具合を確認しながら二時間おきにトイレに行っては寝て……を繰り返していた。そんなことを繰り返しているうちに、飛行機の照明が再び付き、朝ごはんの時間になった。外は真っ暗だ。飛行機の中で過ごす時間はどこか狂っている。僕のおなかは6時間前に食べた食事のことを忘れ、外の暗さなんか気にせずに何かを欲している。僕は朝ごはんを食べながらモニターを観ていると、乗り継ぎ地のカタール、ドーハ国際空港まではもう目と鼻の先だった。朝食を終え、機内アナウンスに従ってシートベルトをしっかり締める。徐々に高度を落としていく飛行機に身を任せながら飛行機は着陸態勢に入った。

始めて降り立ったカタール。飛行機を出て二度目の手荷物検査をパスし、僕はドーハ空港の中へ入ることができた。中東に対するイメージがほとんどない僕は目に飛び込んでくるすべての光景が新鮮で、頭の中にあるカタールというタグにどんどん情報が紐づけられていく。紫色の妙にいやらしいネオンと金色にコーティングされた免税店。閑散とした成田空港の免税店を見た後だったからか、とにかくスケールの大きさに圧倒されてしまった。僕はきょろきょろしながら空港内を闊歩する。次の飛行機の離陸時間まで約四時間。僕とルイは空港内の電光掲示板を見つけると、すぐにそちらへ向かい、それぞれ乗る次の便のゲートを確認した。

「お、あった!バルセロナ行きは〇ゲートか。近くてラッキー。カイトの便のゲートはどこだった」

「……」

「おい、聞いてるか?」

「……。ない!僕が乗るはずの便が電光掲示板のどこを探してもない!」

「んなバカな。四時間後だから、まだ出てないだけでしょ」

「いや、でも、僕のより後の便の情報は出てるんだよ。どうしよう」

僕は動揺していた。さすがに欠航はないだろうし、まあ何とかなるだろう。そう自分に言い聞かせ、気丈には振る舞っていたつもりだが、僕の口数は明らかに減っていたし、声のトーンも落ちていた。ルイにもその動揺が伝わったのだろう、カタール空港について30分ほどの僕たちの会話は大人しかった。

「カタール航空のアプリ、入れてる?このアプリで自分の航空券を登録すれば、リアルタイムで運行状況を見れるから入れてみようよ」

僕はインターネット圏外になってる、このカタール航空の中で空港の無料Wi-Fiを拾い、アプリをダウンロードし、自分の航空券を登録した。自分一人では確実に出来なかったであろう一連の作業を簡単にサポートしてくれるルイを横目に、この出会いがなければ僕はこの空港で彷徨い、野垂れ死んでしまうのだろうかとさえ思った。

「おっけー!これでできたよ」

そんな妄想を一蹴するくらいに心強い言葉で僕は現実世界に引き戻され、ルイが持っていた僕のスマホの画面をのぞきこんだ。そこには予定離陸時間に二重線が引かれ、下に赤い字で新しい離陸予定時間が書かれていた。二時間遅れの出発が確定した僕は、自分の便が欠航していなかった安心感と、これから六時間も過ごさなければならないという不安感に駆られた。僕は不安の方を心の底にしまい、安心感を前面に出してルイとの残りの時間を過ごした。僕は空いた時間で、両替をしようとカタール航空内の両替所に向かった。二万円を出してユーロに変えたい旨を伝えると、わけもわからず住所や電話番号、果てには大学名まで聞かれ、十分ほどの手続きを終えた僕の手元には百ユーロとなぜか一カタール・リヤルガ渡された。その後ルイはスタバでドリンクを注文し、機内食の食べ過ぎで若干胃がもたれていた僕は、フードコートにあったバーガーキングで割高なサラダを食べた。予想外のこてこてなドレッシングがもたれた僕の胃にボディーブローを与える。そうこうしているうちにルイの離陸時間が迫ってきた。

「いよいよお別れだね」

出会って半日ほどしか経っていないのに十年来の友人と別れるような、そんな不思議な心地がした。最後に記念写真に一枚とり、日本での再会を誓ってからルイは搭乗ゲートへと歩いて行った。

そこから、待つこと約三時間。急な搭乗口の変更、遅延にイラつき喚き散らす年配のカタール人らしき客の怒号とそれを制する威厳のあるカタール航空の職員の声。僕は全てに圧倒されながら、ロビーで待ち続けやっとの予定していた飛行機に乗ることができた。

今回は3人掛けのシートの窓側の席で隣は4人家族のお母さんと娘だった。僕は食事以外の時間をほとんど睡眠に費やし、目的地のミュンヘンへと向かったのであった。

ミュンヘン国際空港。国際空港とは名ばかりで、そこはとても簡素な空港だった。僕は入国審査の長い列に並びながらスマホから現地のインターネット回線にアクティベートしていた。幸いにも今回は簡単に空港の無料Wi-Fiにアクセスできたため、いろいろと調べながら現地回線に接続することができた。その間も長蛇の列は一向に前に進む気配がなく、後ろにいる客たちが徐々に前に詰めてくる。待つことおよそ三十分。始めての入国審査は思ったよりすんなり終わった。旅の目的、滞在予定の国などを簡単に答えると職員がスタンプを押してくれた。

「ところでお前はドイツ語が喋れるのか」

職員がパスポートを渡す際に聞いてきた。

「全く喋れないです。英語が少し喋れるくらいで……」

そう答えると、彼は顔を上げにやりとしながら言った。

「それは大変だ。グットラック」

「オッケー。テンキュー。」

僕はわけもわからず、そう答えると、スーツケースを取りに僕は荷物置き場へと向かった。僕は荷物を受け取り、現地回線に繋がったばかりのスマホからグーグルマップを開き、宿泊先のホテルを探す。電車で三十分ほどということで僕はスーツケーツを引きながら、電車に乗りホテルへと向かった。

ホテルは日本のビジネスホテルさながらの雰囲気だった。僕は男性と女性が一人ずついるレセプションへ行き、さっそくチェックインをする。

「パスポートを提示してもらえませんか」

「……。パードン」

英語だったが全く聞き取ることができず、困惑しながらとりあえず予約番号を提示すると、少しイラついた口調で男性スタッフが言った。

「パスポート」

僕は慌ててパスポートを提示すると、彼は僕の予約を確認し始めた。

「……。予約が見つからないです。少々お待ちください」

英語が聞き取れなかったショックに加え、ホテルの予約が取れていないかもしれないという恐怖が僕をかなり動揺させた。

彼が女性スタッフに声を掛け、一緒に探し始める。数分待っているとどうやら僕の名前を見つけたらしい、彼女が笑顔で、

「見つかったわ」

と声を掛けてくれた。安心した僕は、男性スタッフの方からカードキーと部屋番号が手書きで記された紙をもらい、部屋の場所の説明や諸注意等を聞いた。これ以上彼をイラつかせたくない僕は、聞き逃すまいと必死に聞き、最低限の情報を聞き取ることができた。安心した僕は紙に書かれた105号室に向かった。ぐるりと一周、一階を見回ったが110番以降はあるのに、僕の泊まるはずの105号室は見当たらなかった。僕は再び焦った。もうホテルマンの彼には怖くて聞けない。僕は恥ずかしながら目の前にいたバックパックを背負った女性に尋ねてみた。

「すみません、この部屋にはどう行けばいいんでしょうか」

「ここはこのエレベーターで行くのよ」

僕の頭のはてなマークはさらに膨らんだ。一階じゃないのか……。しかしこれ以上なぜと聞けば多分、この子は数字も読めないのか疑われ、即座に精神科に連れていられるだろう。

「なるほど、ありがとう」

僕はできる限りの感謝を表情と声で示し、言われるがまま目の前のエレベーターに乗った。ただ、何階でおりればいいのかわからない。とりあえず2階に降りてみる。そこはやはり2番台から始まるばかり客室でフロアマップを見てももちろん僕の部屋はない。僕は仕方なく、ホテルのスタッフに部屋の場所を聞く覚悟を決め、再びエレベーターの下のボタンを押した。エレベーターのドアが開くと中には優しそうな老夫婦が乗っていた。二人が優しそうに僕に微笑んだ瞬間、僕は一分前の考えを取り消し、エレベーターに乗り込むや否や聞いた。

「すみません、この部屋はどう行くんですか。迷ってしまって……」

「おーこれは7階じゃないか。このエレベーターはくだりだよ。ちょっと遠回りになっちゃうけどいいかね」

そう言っておじいさんは7階のボタンを押した。この時、頭の中でもやもやしていたものが吹き飛んだ。僕は1と7を間違えていたのだ。欧米人特有の癖字というのだろうか、7の上の横線が短く、その代わりに7の縦のラインに、さながら数学で使うときのアルファベットのZのときのように小さく横線が引かれていた。これが7なのか……。僕はまず納得した。そしてやっと部屋にありつけるという感動が遅れてやってきた。僕は親切な老夫婦にお礼を言うとすぐに7階へ行き、自分の部屋へと向かった。

部屋は贅沢にもツインベッドだった。一泊7000円ほどで得たこの贅沢を僕はふんだんに堪能した。まず服を脱ぐとベッドにダイブ。そして三十分ほどゴロゴロすると、僕は二日分の汚れと疲れを落とすべく、シャワールームへ向かった。シャワーを浴びると、僕はきれいになった体を、まだ使われていない、しわ一つない方のベッドへ投げ出した。一時間ぶり、本日二度目のダイブ。飛行機で寝すぎたのに加え、アドレナリンが出まくっているせいか僕の体は疲れを知らなかった。布団の中でミュンヘンで待ち合わせている友人にラインで集合場所と時間を確認すると、むくりとベッドから起き上がった。十分で用意を済ませると、トラムに乗って集合場所へと向かった。

新市庁舎前に着いた。マリエン広場の一角にそびえ立つ、新市庁舎はミュンヘンのランドマークでもあり、多くの人でにぎわっていた。伝統的なドイツらしい、ゴシック調の建物に僕の気分も上がってきた。昔から、洋画やテレビ番組、その手の写真集などでヨーロッパの国々の美しい建築物を観るのが大好きだったこの少年は、目の前に広がる光景に圧倒されたのであった。僕はそこで、友人と合流。友人の友人で、現地ミュンヘンに留学中の子の案内で軽く市内を散策。現代に取り残されたようなレトロな雰囲気を漂わせる旧市街地を巡り、僕たちは彼女一押しの、オープンテラスのビアホールへと入った。ここはホフブロイハウスと言ってミュンヘンでも一番有名と言ってもいいくらい大きなビアホールらしい。土曜日ということもあって、店内はほぼ満席。信じられないほどの熱気に包まれていた。店内を歩き回り、幸運にも空席を見つけることができ、僕たちはここで夕飯を食べることにした。ドイツと言えば、ビールとソーセージ。とりあえず頭の中にあるこの教えに従って2リットルビールとソーセージを注文。長旅の慰労と、これからの旅の幸運を祝って乾杯をした。店内には音楽団の陽気な音楽、酔っぱらった人たちの声、ビールを突き合わせたときのカチンという音、そして定期的に響き渡る音楽に合わせて机をたたく音。様々な音に包まれたこの空間は酔いが回ってきた僕をより不思議な感覚へといざなう。そして改めて、今自分が異国の地にいるんだという実感が湧いた。楽しかった時間はあっという間に流れてゆき、気づけばあたりの空はじんわりと深く濃い青色になってきた。僕は店員に煽られるように二杯目の二リットルビールを飲み干すと、もたつく足で立ち上がり、なんとか店内を出ることができた。すっかり高揚した僕はライトアップされた、新市庁舎前で写真を撮り、酔いを醒ますために市内を軽く歩いた。結局気を利かせてくれた友人たちが僕をホテルまで乗り換えなしで帰ることができる駅まで送ってくれた。僕は友人たちの感謝をし、スリに気を付けながら地下鉄に乗車。無事ホテルに帰ることができた。この間の記憶はあまりない。とりあえずホテルに帰ってから再度シャワーを浴び、浴びるように水を飲んだ。長旅の疲れを癒すため、僕は枕元に水のペットボトルを置きすぐさま布団にもぐりこんだ。数時間もするとだいぶ酔いが醒めてきたが、眠気はやってこない。僕は布団の中で強く目を瞑ったが一向に眠ることができず、結局途中で寝るのを諦めた。時刻は午前4時半。昨晩聞いた、おすすめの観光地をグーグルマップに打ち込みながら、観光ルートを探していた。

午前7時半。布団から出て、カーテンを開けると辺りはすっかり明るくなっていた。僕は部屋をグルリと見渡し、散らかっている荷物を一つずつスーツケースにしまっていった。一通りパッキングを終えると、僕は荷物を持って部屋を出て、チェックアウトを済ました。スーツケースを引きずりながらとりあえず地下鉄に乗車。まずは中心街の駅を目指す。ミュンヘン中央駅に着くとそこは多くの人で賑わっていた。僕はまず、近くのATMで60ユーロを引き出すと、スーツケースを置くためのコインロッカーを探した。グーグルマップでコインロッカーと検索。するとすぐさま付近のコインロッカーの位置がマップ上に出てきた。僕はマップを見ながら慣れないミュンヘンの駅を歩くが一向に見当たらない。重いスーツケースを引きながら同じ道を何度も往復していると、寝不足だからだろうか、僕は少しイライラしてきた。結局20分くらい歩いて、やっとコインロッカーが地上階にあることに気づいた。僕は地下街で、ありもしないコインロッカーを探しに何往復も歩いていたのだ。僕はやっとの思いでコインロッカー置き場にたどり着いた。ただ使い方がわからない。ロッカーの前でガチャガチャとドアを触っていると、後ろかおばさんが話しかけてきた。ロッカーの使い方を教えてくれているのだろう、手振りとゆっくりのドイツ語で一生懸命話しかけてくれる。もちろん僕はドイツ語が全くわからない。ジェスチャーを見てるとどうやら僕が開けようとしたロッカーは使用中だったようだ。僕は空いてるロッカーを教えてもらい、何とかそこにスーツケースを入れることができた。おばさんの優しさに感動し、丁寧に感謝を伝えた。身も心も軽くなった僕は、若干の疲れは残りつつも、今からの市内観光に向けて気分は晴れやかだった。

駅を出るとドイツ式の質素ながらも荘厳な建物が飛び込んできた。僕はとりあえず、昨日も訪れた市街地を目指し、東の方へ向かって歩き始めた。駅から5分も歩くと、シャッター街が広がりはじめた。日曜日の朝だというのに人通りも少なく、重々しい建物の雰囲気も相まって非常に不気味な場所だった。そこからさらに進み、トラムや車などが行き交う大通りに出た。その先に広がるのがカールス広場、そして建物の間に窮屈そうに佇む、カールス門がある。門を抜けてさらにマリエン広場の方へ向かうと、両側には飲食店や雑貨屋さん、ブランド店などさまざまなお店が軒を連ねている。僕はキョロキョロと両側に広がる店々を眺め、そしてその雰囲気を楽しみながら進んでいった。僕は元来、有名な観光地に行かなくても、ローカルなところを歩きながらその土地の雰囲気を味わうのが大好きな人間なのだ。そのまま進むと昨晩も訪れた、マリエン広場に到着した。昼間のマリエン広場は観光客が多く、至る所でシャッターを切る音がした。僕も例の漏れずに、写真を数枚撮ると、旧市街を再び散策。途中に寄った聖母教会は辺りを樹々が覆っていて、さらに教会の前には小さな広場と噴水が。水の音と水で遊ぶ子供の声、樹々のこすれる音と、近くの店のテラスでお酒を飲んでいる人々のさざめき。僕は石垣のようなところに腰をかけると、目と耳を使ってゆっくりと流れてゆくあたりの景色を味わった。旧市街地を抜けると、オデオン広場に出た。旧市街のレトロな雰囲気から、近代的な街並みへ。ただ、超高層ビルがあるわけではなく、この新旧の絶妙なバランスが味のある、ヨーロッパの街並みを作り出しているように感じる。メインストリート沿いを歩くと後ろからベルの音がした。慌てて振り返ってみると、自転車がこちらに迫ってきている。僕は慌てて避けると、去り際に自転車のドライバーが一言二言僕に声をかける。もちろんドイツ語なので理解はできないが、どうやら僕は自転車専用道路を歩いていたようだ。そういえばミュンヘンに来てからやたら自転車や電動スクーターをみるように感じる。こちらでは日本以上に自転車が交通の一環とし使われているのだろうか、道路も車道と歩道の間に、自転車とスクーター専用レーンがあることに、改めて文化の違いを感じさせられる。そのまま歩道を進むと、勝利の門まで出てきた。何のことはない、門を中心に環状道路になっているだけである。一応ライトアップするときれいらしいが今は真っ昼間。とりあえず記念に数枚写真だけ撮り、さらに先進んだ。勝利の門を抜けると街はより住宅街のような毛色を帯びてきた。一番歩道側の車道は路駐された車で埋まり、道路の両側にも家やちょっとしたレストランなんかが増えてきた。僕は昨晩勧められたスポットのうちの一つである、英国庭園へと向かった。英国庭園は芝生の広がる公園で、日差しは強いものの暑すぎず、若者や子供たちはバドミントンやどうやら海外で流行ってると噂のスパイクボールなどをしている。僕は近くのベンチの腰掛けながら少し休憩。ぼんやりのミュンヘン市民の休日を観察していた。30分ほどすると今度は中国塔のほうへ向かう。ミュンヘンの英国庭園にある、中国塔。何ともわかりにくいが、とりあえず向かっていくと、どうやら賑やかな音楽が。昨晩にビアホールで聞いた、乾杯の歌が聞こえてくる。アイン・プロージットというらしい、この曲は日本で言う一気飲みのコールのようなものだろうか。ただこちらではこの音楽をレコードから流すのではなく、管弦団が弾くのだからまた面白い。その音楽に誘われるように歩いていくといつのまにか中国塔に辿り着いた。中国塔の周りに仮設のテントが設営されていて、そこに椅子と机、そして出店のようなものがある。さまざまな人々が昼間からビールを楽しんでいる。僕はここでお昼ご飯を食べようかどうか葛藤したが、1人ではここの雰囲気に耐えられなさそうという情けない理由で泣く泣くここを後にした。そのまま再び旧市街の方角へ向かって歩く。

住宅街の中を歩きながら、1人でも入りやすそうなお店を探す。値段も見ながら探していると、ビールも飲めそうなちょうど良いお店を発見した。ハンバーガーと添えつけのポテト、ビールを頼んで20ユーロ弱。ドイツの物価をよくつかみ切れておらず、これが割高なのかお得なのかはいまいちわからなかった。ただ、ハンバーガーは肉がジューシーでパンから溢れんばかりの大きさ。ポテトはジャガイモをそのままカットしたような感じで、一つ一つがしっかりとした食感のうえ、適度に塩分も効いている。ビールもクセがなく飲みやすかった。大満足でお会計。カタールの空港で下ろした100ユーロ紙幣を早いところ崩そうと、ダメもとで崩せるかウェイトレスの方に聞いてみる。ウェイトレスは現金を入れている財布を僕に見せ、首を振りながら100ユーロで渡せるようなおつりはないよと言わんばかりの表情。僕は諦めてカードで支払い、その店を去った。時刻は夕方の3時前と少し遅めのランチを済ませた僕はゴッホのひまわりが所蔵されているという美術館、アルテピナコテークへと向かった。日曜日は入場料がたったの1ユーロということもあり、館内は込み合っていた。ひまわりはもちろん、肖像画を中心に様々な絵が展示されていた。絵を観終えて美術館を出ると時刻は午後5時前。出発の時間も近づいてきたので、旧市街地の景色を目に焼き付けようと再びマリエン広場の方へ向かって歩いた。一通り旧市街地を回り終え、僕は最後に一杯コーヒーをもらおうと、付近のカフェに入った。

席で待っていると店員が近づいてきた。

「ドイツ語は話せますか。それとも英語ですか」

「すいません、英語しか話せないです」

「わかりました、英語で話しますね。今回は何か食べられますか」

「コーヒーだけいただきたいです」

「承知しました、メニューはこちらになります。注文がお決まりになったらお声掛けくださいね」

ティモシー・シャラメ似の大学生くらいのさわやかな店員は、メニューを置くと、そう言って僕のテーブルから離れた。ティモシー君は英語とドイツ語が話せるようだったが、メニューはもちろんドイツ語のみ。僕はかろうじて、コーヒーの欄を見つけるが、アメリカン、エスプレッソ等、コーヒーに疎い僕にはいまいち理解できない。多分言語以前の問題だと思う。僕はとりあえずアイスコーヒーが飲みたかった。その日は汗ばむほどではないが、日も照っていてて、その中を2万歩以上歩いたのだ、アイスコーヒーを飲んで一息つきたい。僕はティモシー君に声を掛ける。

「すみません、コールドコーヒーをください」

英語圏では、アイスコーヒーのことをコールドコーヒーと言うとどこかで習った気がした。ただ、ティモシー君には伝わらなかった。

「コーヒー、プッティド ウィズ アイス(coffee, putted with ice)」

これで伝わるだろうと自信を持って言ったが、ティモシー君は眉間にしわを寄せたまま聞き返す。

「……。オッケー。アメリカン、エスプレッソ」

「うーん、エスプレッソ」

前に述べた通り僕は飲めれば何でもいいタイプの人間。細かいコーヒーの知識はもちろん持ち合わせておらず、適当にエスプレッソと答えた。

ティモシー君はオッケーと言い、テーブルを離れた。とりあえず一安心、これでやっとコーヒーが飲めると思い、スマホを見ながら待っていると、ティモシー君がコーヒーカップを持って現れた。“ん、コーヒーカップ……。僕はアイスコーヒーを頼んだはずだけど”心の中で僕ががつぶやく。

「お待たせしました。エスプレッソコーヒー、ウィズ アイスです。これでいいんですよね」

そう言って目の前に置かれたのは、ティーカップに入ったエスプレッソとそこにぷかぷかと浮かぶ数個の氷。ティモシー君が窺うようにこちらを覗く。うん、確かに僕の言った通りのコーヒーだ。でもこれじゃない、僕が飲みたいのは。ガラスのグラスに入った氷が数個と真っ黒なブラックコーヒー。ストローで飲むあのアイスコーヒー。そもそもティーカップに氷を入れるのなんて見たことがない。これを頼んでしまった僕が恥ずかしくなった。

「あ、ああ。確かに僕の言ったとおりだ。ありがとう」

そう言うと、ティモシー君は本家顔負けの笑顔を見せ、席を離れていった。僕はすぐさまグーグルで“エスプレッソ アイス”と検索。するとほとんどヒットしなかった。どうやらエスプレッソは基本的にホットで飲むものらしく、アイスでは飲まないらしい。それはティモシー君も驚くわけだ。僕は自分の中にある、コーヒーの知識をアップデートさせながら、ぬるいエスプレッソを体内に流し込む。全部飲み終えると、会計を済ませ、急いでミュンヘン中央駅へと向かった。

バスの出発まで約2時間。僕はコインロッカーから荷物を取り出し、バスターミナルの方へ向かう。信号を待っていると、けたたましいクラクションとハイテンポな音楽が後ろの方から聞こえてきた。思わず振り返ると十数台の車がお祭り騒ぎのようにクラクションを鳴らしまくったり、助手席から身を乗り出しながら旗を振ったり。日本では考えられない、この光景はその後も僕の心になぜか沁みついている。沈みかけている夕日と響き渡るサイレン。そんな光景を横目にまっすぐ進んでいくと、ミュンヘンのバスターミナルに到着。とても大きなバスターミナルで、若干の臭さと小汚さはあるものの、バス停の場所と出発時間を示す大きなモニターがあり、比較的すぐに自分のバス停を見つけることができた。バスに乗る前に60セントを払ってトイレを済ませ、いざバスへ。ドライバーにパスポートを見せると、ドイツ語で何やら話しかけてくる。もちろん意味はわからない。僕が困った顔を浮かべていると、イラついたドライバーが簡単な英語とジェスチャーで畳みかける。どうやら、あなたは途中下車しないのだから、預入れ荷物は反対側の扉から入れてくれと伝えたかったらしい。僕は少し大げさにオーケーと伝え、慌てて荷物をしまい、バスに乗り込む。今回利用するバス、フリックスバスはドイツ発祥のバス会社でヨーロッパを中心に長距離格安バスを何便も提供している。僕は今回このバスを使って、ミュンヘンからフランスのパリを目指す。夜の8時にミュンヘンを出発してパリのつくのは朝の7時ごろ。丸々一晩を異国の地のバスで過ごすわけで少し不安はあった。出発前のバスはカップルが抱き合っていたり、家族が最後の別れを惜しむように話していたりと感動的な雰囲気だった。時間になるとバスはゆっくりと出発し始めた。窓の外を見ると、先ほどの家族が大きく手を振っている。日本の夜行バスと違い、このバスは国境を跨ぐ。ここでの別れは、すまわち、祖国との別れを意味するのだ。僕は改めて陸続きのヨーロッパはこうも簡単に国を超えて行き来できるのかと感じた。30分も進むと周りから大きなってものが消え、鬱蒼な森が広がり始める。僕は行きに空から眺めたドイツを思い出しながら、窓の外をぼんやり眺める。吸い込まれそうな深い緑に僕の睡魔が誘われる。気づいたら僕は眠りについていたようだ。

(続く)

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