こんにちは、カイトです。
今回は遠藤周作の作品『沈黙』について感想を書いて以降と思います。
この作品はミステリーとかでもなく、ネタバレとかを気にする作品ではないと個人的に思いますが、何も知りたくない方は是非読み終わってからこの感想を読んでほしいです。
作品について。
この作品は、遠藤周作が1966年に書き下ろされ、新潮社から発売された歴史小説。
第2回谷崎潤一郎賞を受賞した作品です。
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
本書背表紙の説明から引用
遠藤周作はカトリック作家でキリスト教を題材にした作品を数多く扱っています。
自分は遠藤周作を確かセンター試験の過去問をやったときに初めて知った覚えがあります。
(調べたら、2005年に『肉親再開』という作品が出題されていました。)
この時はひどくストーリーのインパクトを受け、自習室でお昼ご飯を食べながら遠藤周作の調べまくった覚えはあります。
(この作品が創作なのかノンフィクションなのかが気になっていた気がします)
そんな遠藤周作が、ある意味禁断であろう、神の存在について深く深く問い詰めた作品がこの『沈黙』です。
キリスト教徒たちもおそらく目を背けてきたであろう部分も光を当て、というよりはそこを無視せずに純粋になんでなんだろうと考え詰めたところがこの作品の評価され、読み続けられる理由だと感じます。
「タクシー・ドライバー」などの作品で有名なマーティン・スコセッシ監督によって映画化もされています。
彼自身もカトリックの司祭を目指していた時期があるみたいなので、この原作を見て思うところがあって映画化したのだと思います。
是非この映画も見てみたいと思います。
ということで次章ではこの作品を見て感じたことを書いていこうと思います。
遠藤周作の書いた“神の沈黙”
この作品の一番の主題は“神の沈黙”。
言うまでもないことだと思います。
迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。
『沈黙』pp83より引用
この作品は主にセバスチャン・ロドリゴという、日本に派遣された司祭の視点で語られていきますが、彼は純粋に疑問に思っているのです。
神はなぜ助けてくれないのだと。
でも心ではどう思っているのでしょう。
ここからは、誤解を恐れず、あえてドライにドラステッィクに言います。
具体的に“神様はなぜ沈黙するのか”、という事実に対してどうなることが正解なのですか?
多分この問いと同じくらいの抽象度で言えば、“今の苦しい状況を打破してくれる”ということでしょう。
でもこれじゃあ全然具体的ではありません、と言うか、現実的ではないですよね。
急に虐げてきた人々が死ぬんですか?
偉い人がそれこそ“神のお告げ”か何かで改心するんですか?
いやいや、よっぽどそうはならないと思います。
彼らは本当に具体的な救済を必要としているんでしょうか?
ただ訴えているだけなのではないか、神の理不尽さを。
おそらくロドリゴ(や一部の信徒たち)は、こういったやりきれない思いを自分たちの中で作り出し、具現化した神のせいにしているだけなのではないでしょうか?
そして、その神にすがることで、今の不遇な状況を乗り切るのです。
この作品の序盤にも出てきますが、そういった強い意志を持ったものの、忍耐力の強さってとてつもなく大きな力を秘めていますよね。
そういった強い意志を秘めたものは、常人には耐えられないような、痛みや恐怖、苦痛を乗り越えています。
神を信じる百姓たちは、いまが苦しくても天国に行けば年貢を納める必要のない、幸せな未来が待っている。そう信じているわけです。
現実から逃避し、見えない先の“何か”に希望を見出す。
ここまでドライに書いてきたわけですが、僕(を含めおそらく多くの人)がここまでドライに踏み込めるのは僕たちがここまで究極的で絶望的な人生を送っていないからです。
もちろん僕たちだって何か辛いことやしんどいことがあると、なぜこうも世の中は不条理なんだと感じます。
順風満帆にいっている人なんかを持ち出し、神は不平等だと“うわべ”では思うわけです。
でも、長い時間軸、広い世界の中で見れば僕たちのほとんどは、恵まれた生活をしているし、神にすがり続けなれば生きていけないような、絶望の淵に立たされ続けているわけでもない。
逆説に言えば、ここで描かれる百姓たちには神が、いや何でもいい、何か自分たちを救ってくれるものが必要だったのです。
本書にも書いてあった通り、米すらまともに食べることができない百姓たちにとってそういった存在は必要だったわけです。
そのタイミングで彼らのもとに革新的な、基督教が入ってきた。
だからその求めていた“何か”を基督教に置き換え、必死に祈っていたのではないでしょうか。
そしてそれが、基督教である必要はあるのだろうか。
仏教ではだめなのか。
ここまで考えてきて、思い浮かんだ疑問。なぜ彼らは基督教にこだわったのだろうか。
宗教に疎い僕には正直わかりません……。
とにかく、基督教が多くの百姓の心を掴んだ、それは歴史的事実としてあるわけです。
そして彼らは、簡単に“転ぶ”(=教義を捨てて踏み絵をする)ことができないわけです。
すがるもの、今まで信じてきたものを失くすわけですから。
そういう意味でキチジローはこの時代、この世界観の中では明らかに“浮いて”いますが、僕たちの尺度で考えてみれば、一番理にかなっているというか、普通の行動に見えてきませんか?
そして、この主人公、ロドリゴが踏絵をできない理由は何でしょうか。
本当に、純粋な信仰心からでしょうか?
この物語のラスト、“イノウエ”を残酷な選択を迫り、“フェレイラ”は革新的な部分を突きます。
自分が“転ぶ”のを選ぶのか。つるされた百姓たちを救うのを選ぶのか。
ここで“転ばない”のは簡単です。
救いを求める百姓たちだってそれを望んでいるはずです。
でも冷静に考えておかしくないですか?
実在しているわけでもない(もちろん、彼らは神を信じているが少なくとも今目の前に実体としては存在していない。)神の教えに背かないために、目の前で生身の人間が死にかけているんですよ。
信仰心とかを捨てて、理性的に考えれば“転べ”ばいい話じゃないですか。
でもそれはできない。
そしてそのことに対して、フェレイラは言うわけです。
「お前は彼等より自分が大切なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。……それなのにお前は転ぼうとせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ。」
『沈黙』pp263-264より引用
転ばないという意思は、自分の保身のためだと。
こういわれたときの絶望は僕でも想像は尽きます。
今までの価値観を180°変えられるわけですよ。
自分が正しいと思ってやってきた今までの行為を真っ向から否定され、根底にあるものを揺すぶられるわけです、恩師から。
とにかく簡単に言語化のできない、何とも言えない思いが残る作品でした。
それでもやはり、心のよりどころは必要だと思う。
この物語に答えはありません。
神が悪いとも、良いとも言っていません。
ただ、史実に基づいた形で遠藤が当時の苦しみから、神を信じることに対して本質的な部分を突くわけです。
この物語は、こういった意味で神を信じてきた多くの人の心に衝撃を与えたのではないでしょうか。
それこそ前述のスコセッシ監督もそうですが。
この物語では、信じることに対してすごく現実的に突き詰めていきましたが、僕はこの物語を読んでもなお、信じるもの(対象となるもの)の存在の大切さを感じます。
わかりやすいものは神ですが、神じゃなくてもいいです。
例えば、死んだおばあちゃん、とかだっていいわけです。
しんどくなった時、ふさぎ込まず、そういった対象に励ましてもらい、乗り越えるという行為自体はすごく健全だと思います。
例えば、
今は辛いけど、きっといつかは報われる。神様は見ているんだ。
死んだおばあちゃんがきっと守ってくれる。
とか。こういった言葉はよく漫画や小説なんかで見る表現だと思いますが、現実世界でもすごく有用なマインドだと思います。
大事なのは、今を乗り越える活力にすること、なのかなと思います。
“今”というのが大切です。
その結果、報われたとか、報われなかったとか、は関係ないです。
この物語のように見返りを求めてはいけません。
繰り返しますが、こういった信じる者に対する思いを今を頑張るための力に変えるんです。
さっきの例で言えば、
神様はきっと見ている。だから一生懸命頑張るぞ。
死んだおばあちゃんがきっと守ってくれる。だから思い切ってやるぞ。
とか。
これは僕自身、日ごろから意識しているマインドでもありますが、この物語を読んで改めてこの思いを感じました。
まとめ。
とまあ、今回はかなり感情的に感想を書いていったので、まとまりのない文章になってしまいました。
遠藤周作作品は少しずつ読み進めていきたいです。
2022/11/6