雑記

人生のターニングポイント。

カイト

こんにちは、カイトです。

昔の話をしよう。

時は中学3年生の夏。ーーー野球部に所属していた僕は控えメンバーとして最後の大会に臨んだ。順調に勝ち進むも、最後に負けてしまい、地区予選での敗退が決まった。 みなが涙した、僕を除いて。 ーーー

終わった直後、僕は不思議な感覚に陥っていた。“ああ、中学3年間の野球部もこれで最後かあ…”と。 悔しいとか悲しいとかいう気持ちよりも、今まで当たり前のように続いてきた日常が終わることをうまく受け入れなかった。

“負けた”という具体的な事実以上に、こういった抽象的な感情が溢れてきてしまった僕の目には涙はなかった。

当然のように僕は非難された。「お前は悔しくないのか」「お前は練習真面目にやってないから涙が出ないんだ」「お前には感情がないのか…?」

今となっては笑い話だが、当時はまあ色々と言われて少しムッとした。と同時に自分自身に問い詰めた。 

僕はドライな人間なのか…??

これは僕が人生を通じて悩み続けた“僕はドライな人間なのか…?”という問題に向き合って綴った記事である。

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もう少し当時の話をしよう。 当時僕は確かに涙するほど努力をしたかといえば、「ノー」だろう。

もちろん毎週土日は休まずに部活に行って練習したし、練習も真面目に取り組んではいた。

ただ、それはあくまで受動的な努力であって、ハードな練習を“やらされていただけ”とも言える。主体的に練習に取り組むことはほとんどなかったし、そもそも部活自体も正直にいえば憂鬱だった。

だからこそ、試合に敗れても自然と涙は出てこなかった。

この真夏のひとときが、僕の人格形成における一つのターニングポイントだったように思う。

それからというもの、僕は自分自身をドライで冷たい人間だと認識した。自分自身をドライな人間だと認識すると色々なことが腑に落ちるような気もした。

確かに当時の僕は、映画やドラマといった感動のシーンで泣くという経験がそんなになかった。そもそも、人生で感動したと思うようなことが中学生までにあんまり無かったように思う。

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そんな僕でも当時、決まって涙してしまうモノがあった。それが『NARUTO』を観ている時である。これがすごく不思議でならなかった。

ドライな僕が流す涙にどんな意味があるのだろうか。

これはこの時以来ずっと僕に付き纏った疑問だが、最近この答えがわかったきたように思う。

僕は浅い感情にドライなのであって、涙を誘うような純度100%の感情に対しては、ものすごく心を奪われてしまう。

ーー 映画で言うならば、『グラントリノ』『coda愛の歌』『エターナルサンシャイン』…… こう言ったどうしようもない状況に陥った時にどうしても感情移入してしまい涙が溢れる ーー

もちろんこう言う物語が虚構であることは十分承知である。人によってはこの嘘っぽさが逆に涙を誘わないだろう。だが僕は現実世界でこれほどまでに熱くなれたことがないからこそ、物語の中で嘘みたいな真っ直ぐな感情と向き合いたい。浴びたい。

僕はドライではない。リアルな生活に感動が足りないだけだ。死ぬほど辛い思い、地獄のような努力の日々、こういったリアルな体験を通して、本当の涙が僕から溢れる日を待ち望んで。 

中学3年生の夏。このターニングポイントを境に僕は本当の感動を求めて日々過ごしている。

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