雑記

モノマネ芸人のアイデンティティを考えてたら、たぶん真理にたどり着いた。

先日、たまたまYoutubeで元メジャーリーガーであるイチローの物まね芸人で知られる、ニッチローが始球式で打席に入る動画を観た。

打席に入る前の、一つひとつのルーティーンをこなすニッチロー。

そのまなざしは真剣そのもので、傍から見たらイチローと遜色ない。

この一連の動画を観ながら、「相変わらずイチローそっくりだなあ。」と思ったわけだがこのときふと頭に思ったことがあった。

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物まね芸人のアイデンティティって何なんだろう?

アイデンティティ。日本語で言うところの自分らしさ。

物まね芸人の存在は、この言葉の対極にあるように思う。

自分らしさを無視して、時には捨てて、既存の存在に擬態する。

ニッチローだって、イチローという存在に出会い、ニッチローというキャラクターを構成していく上で色々な自分らしさをそぎ落としていったはずだ。

もちろん、そういった背景には芸能界で生き残っていくための強い覚悟なんかも含まれているだろうが、少なくとも僕にとっては、他人のキャラクターを自分に、過度に投影することに恐怖を感じる。

その恐怖は、流行り廃りの激しい芸能界において、そのキャラクターが売れるのか売れないという、物理的な恐怖ではない。

僕が感じるのは、自分のアイデンティティを喪失するのではいかという、精神的な恐怖だ。

それくらいに、僕は自分という、物理的な存在ではなく、精神的な存在に対して自信を失うことがたまにある。

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高校時代、自分の将来のことや自分自身について深く考える際に、何度も自分らしさについて考えた。

自分を自分たらしめているものは何だろうか。

別に秀でた才能があるわけでもなく、みなから無条件に愛されるようなわけでもない。

僕という存在がある日突然消滅したとて、それは水面に落ちた石と同じように、ごく一部の周囲に一瞬の感情を与えたのちに、平穏な日常が戻る。

自分の存在価値を否定するようにネガティブな感情に引っ張られて、布団から出れず、自分の無力さに涙を流し、何もできないことに対する焦りから全身から汗を流すようなときもあった。

それくらいには、思春期にアイデンティティについて振り回された身にしてみれば、自分をそぎ落として物まねに徹することには、畏敬の念を感じずにはいられない。

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ただ思春期に自分のアイデンティティを形成していく上で、気づいたこともある。

人は誰しも、様々なペルソナを持っていて、それぞれのシチュエーションで使い分けている。

いつも吞べえでおちゃらけたこともいう父親だって、会社に行けば部下を携えてボスの顔になる。

コンビニでマニュアル通り、機械のように繰り返し作業を行う従業員だって、家に帰れば人間味の帯びたことだってするはずだ。

そして僕自身も、無意識に様々なペルソナを使い分けている。

学校での自分。バイト先での自分。家族へみせる自分。

誰一人、本当の僕を知らない。逆も然りだ。

僕だって本当は、誰のことも知らない。

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メンタルが崩壊していた高校時代も、学校では何事もないように、自分の恥部を覆い隠すように、自然に過ごしていた。

大学進学後も、自分の全てをさらけ出すのを嫌い、表面上の会話を続けることが多かったように思う。

ただやはり、積もり積もってくる、負の感情を自分の中だけにとどめておくことは不可能に近かった。

だからこそ、大学進学後にブログを開設し、こうやって文章におこすことで、感情を出来るだけきれいに、丁寧に、自分の中から排泄していった。

そうした変化の中で、最初はごくわずかな友人に自分の本当の姿を、月並みの表現で言えば、腹を割って、話すようになっていった。

そして、友人の胸の内も聞いたりした。

そういった友人との会話の中で、誰しも、とは言わないが、僕以外にも言語化するのが難しい、自分の中からどろどろとあふれ出るような、名もなき感情に悩み、苦しむ人がいることを知った。

(少なくとも、そういう僕の話を聞いて、共感してくれる友人がいる僕は、恵まれた環境にいるなと感じるようになった。)

この、鏡写しのような体験が、僕をより人らしくしてくれた。

もう少し、自分をさらけ出してみようという気になった。

他人を信頼し始め、少しずつ自分を、自分の思いを出すようになっていった。

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物まね芸人のアイデンティティついて考えていたはずなのに、気づいたら自分の、ひいては、人間のアイデンティティ、そして多面性にたどり着いた。

僕自身、今でも、これといったアイデンティティは見いだせていない。

ただ、様々な自分の持つ要素の組みあわせが、自分を自分たらしめている、アイデンティティだと認識している。

そしてこんな考え過ぎちゃう自分もまた、自分の一部なのだ。

この、考えすぎてしまう側面に苦しめられることもあったが、この性格を受け入れるようになってから、少しは気が楽になった。

考えすぎるからこそ、自分を内省し、石橋をたたいて渡るような人生を歩いてきた。

おかげで、大きなミスや失敗を繰り返すことなく、順調に生きてこれているように思う。

ただ、時には、あまりに単調すぎる、その道を外れて大きく踏みだしたくなる。

性格上、勢いで踏み外すことが出来ない僕は、持ち前の考えすぎる性格を存分に生かし、あらゆるリスクやデメリットなんかを考える。

そして自分に合ったやり方で少しずつ自分らしさを出していく。

自分の求める、理想的なゴールへ軌道修正していく。

そのために僕の考えすぎる性格は間違いなく役に立つ、はずだ。

ニッチローからたどり着いた、結論。

これが僕のアイデンティティだ。

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