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嫌われる勇気  徹底解説

嫌われる勇気の通販/岸見 一郎/古賀 史健 - 紙の本:honto本の通販ストア

こんにちは、カイトです。

今回は、ついに大ベストセラーである、岸見一郎さんの『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』について解説していきたいと思います。

本書は

  • トラウマを否定せよ
  • 全ての悩みは対人関係
  • 他者の課題を切り捨てる
  • 世界の中心はどこにあるか
  • 「いま、ここ」を真剣に生きる

という大きく分けて5つの章立て構成されており、悩みを持っている青年とギリシャ哲学の専門家である哲人(てつじん)の対話形式で書かれている本です。

この本ですが読んだ感想を一言で述べさせてもらうと、

言っている理屈はめっちゃわかるし共感できるけど、実際にそのマインドを持つのが難しい。

しかしその事実は本文でも述べられていて、

哲人 アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。つまり、40歳から学びはじめたとすれば、プラス20年が必要で60歳までかかる。20歳から学び始めた場合にはプラス10年で30歳までかかる、と

引用元:「嫌われる勇気」pp243-244

といっています。

本当にアドラー心理学を取り入れたければ、若いうちにこの本を読んでおいたほうがいいと思います。

ここまで読んで

そんなに時間がかかるなんて…それくらいすごいの?アドラー心理学って?

そう思われる方もいると思います。

先ほども述べたように内容はぶっ飛びすぎて即効性はないと思いますが、

  • 過去に挫折したりつらい経験をしたことがある
  • 人間関係で悩んでいる
  • 周りの目が気になる
  • 承認欲求をどうにかしたい

という人にとっては読む価値があると思います。

(きっと何かのヒントを得られるはずです。)

といっても結構ゴツイ内容なので、目次を見て自分の悩みに当てはまる部分だけ読むというのもありです。

そこで今回この記事では、『嫌われる勇気』を一通り読んだうえで

ここは共感した!ぜひみんなにも知ってほしい!といった部分を自分の知見も交えながら紹介していきたいと思います。

一応要点は全て押さえるつもりですが、その分だいぶ長い記事になると思うので、忙しい方などは目次などを活用しながら読んでいってください。

内容

さっそく章ごとに内容を追っていきたいと思います。

トラウマを否定せよ

「原因論」と「目的論」

哲人は原因論と目的論を定義します。

原因論…現在の結果はすべて過去の出来事によって規定されているという考え方。いわゆる皆が日常的に考える普通の考え方。

目的論…過去の原因ではなく、今の目的を考える考え方。アドラー心理学的な考え方。

多分これだけではわからないと思うので具体例を出します。

引きこもり状態の子について考えます。

・原因論の考え方…不安(原因)だから、外に出たがらないと考える

・目的論の考え方…外に出たくないから(目的)、その目的を達成するために不安や恐怖という感情をこしらえていると考える。

これって全然違いますよね。アドラーに言わせてみれば今の目的に見合う、都合のいい事実を過去から探し出しているだけなのです。

そういった意味で、アドラー心理学ではトラウマを明確に否定します。

ここでトラウマの定義を確認してみましょう。

トラウマ…外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃(外傷的出来事)を受けた事で、長い間それにとらわれてしまう状態で、また否定的な影響を持っていることを指す。

Wikipedia参照

こうやって考えてみると、トラウマが原因論の産物であることがわかるのではないでしょうか。

(だって過去の出来事が今の事実につながってるって考えるのが原因論だから。)

哲人 …しかし、アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。

引用元:「嫌われる勇気」pp29-30

要するに、トラウマとなっている出来事も捉え方によるということでしょうか。あなたがトラウマだと思っている“事実”はただの“事実”であり、それをトラウマと規定しているのはあなた自身であると。そしてトラウマと思うことであなたはあなた自身を苦しめていると。別にあえて“ある事実”をトラウマと認識して自分自身を苦しめる必要はないということです。(あくまで僕の解釈ですが…)

人は変われるのか

あなたは憧れの人(仮にAさんとしましょう)を見て、「Aさんみたいになりたいな」って思うことはありませんか?

でも当たり前のことですが、あなたがいくら望んでもAさんとして生まれかわることは不可能なのです。

アドラーはこういっています。

「大切なのは何が与えられているのかではなく、与えられたものをどう使うかである」

あなたがAさんになりたいと思う要因は、「何が与えられているのか」に注目しているからです。(容姿、才能、運動神経etc)

そうではなく、「(自分に)与えられたものをどう使うのか」に注目しましょう。

これはそう簡単にできることじゃないと思います。普通はみな金持ちや容姿端麗な人、天才を羨ましいと思うでしょう。
でも残念ながらいくらうらやんでも現実は変わりません。

ここで、アドラー心理学的な「ライフスタイル」という言葉を定義します。

ライフスタイル…性格や気質のこと。人生における、思考や行動の傾向。その人が世界をどう見ているか、また自分のことをどう見ているか。これらの意味づけのあり方を集約させた概念。

何となくボヤッとしたイメージですよね…。まあアバウトに性格という認識でいいと思います。

普通、みなさんは気質や性格が自分の意志とは無関係に備わるものだと考えているはずです。

しかし、アドラー心理学では、ライフスタイル(要するに性格)は自ら選び取るものだと考えます。

あなたは本気で自分自身が変わりたいと思っていますか?

哲人 …あなたは自分のことを不幸な人間だとおっしゃる。別人に生まれ変わりたいとさえ、訴えている。にもかかわらず変われないでいるのは、なぜなのか?それはあなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと、不断の決心をしているからなのです。…

つまり人は、いろいろと不満があったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp52

要するに性格や気質というのは変えられるのに、変わるのを恐れて変えられないと思いこんでいるといったところでしょうか。
確かに僕自身も変わりたいと思いながらも今の自分に居心地の良さを感じて変わろうとしていないだけかもしれません…

なので変わるための第一歩は「いまのライフスタイル」を変えることです。

「もし何々だったら」と可能性の中に生きているうちは、変わることなどできません。

このことを秀逸に表している例が本書で記されています。

哲人 私の若い友人に、小説家になることを夢見ながら、なかなか作品が書きあげられない人がいます。彼によると、仕事が忙しくて小説を書く時間もままならない、だから書き上げられないし、賞の応募に至らないのだそうです。しかし、はたしてそうなのでしょうか。実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたかったのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えば書ける、自分にはその才能があるのだ、という可能性に生きていたいのです。おそらく彼はあと5年10年もすれば「もう若くないから」とか「家庭ができたから」と別の言い訳を使い始めるでしょう。

引用元:「嫌われる勇気」pp55

どうですか、こういう考え方に心当たりはありませんか…?
「俺は本気をだせばできるんだ」と言って何もやらないのはまさにこのパターンですよね。

すべての悩みは対人関係

自分のことが好きになれない

みなさんは自分のことが好きですか?

こう聞かれて、素直に「はい」といえる人は少ないと思います。

現に本書に出てくる、青年も自分のことが嫌いだと言っています。

青年 もう先生もお気づきでしょう。まず挙げられるのは、この性格ですよ。自分に自信が持てず、すべてに対して悲観的になっている。それに自意識過剰なのでしょう。他者の視線が気になって、いつも他人を疑いながら生きている。自然に振る舞うことができず、どこか芝居じみた言動になってしまう。そして性格だけならまだしも、自分の顔も、背格好も、どれひとつとして好きになれません。

引用元:「嫌われる勇気」pp64

「周りの目線が気になる。常にみられている気がする」という主張は僕自身めちゃくちゃ共感します。人混みを歩いていると誰も自分なんか見てないと心でわかっているのに、なんかみられている気がして気持ちが悪いということがよくあります…。
また容姿についてもコンプレックスを抱いている人は多いと思います。最近は写真の加工機能なんかもよく使われてますが、そういう機能が逆に自分の容姿に対してコンプレックスを抱かせているのではないかと思います。
実際、Instagramで整形アプリが使用禁止になりましたが、それも整形アプリで得られた写真のせいで逆に現実の自分の容姿がより醜く感じるというパラドックス的なことに起因していると思います(※)

(※↓記事参照)

https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2019/10/post-266.php

話が少しそれてしまいましたが、なぜ自分のことが好きになれない人が多いのか。

本書で哲人はこう述べます。

それはあなたが他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に恐れているからなのです。…

…自分の短所を見つけ、自分のことを嫌いになり、対人関係に踏み出さない人間になってしまえばいい。そうやって自分の殻に閉じこもれば、誰とも関らずにすむし、仮に他者から拒絶されたときの理由づけにもなるでしょう。私はこういうところに短所があるから拒絶されるのだ、これさえなければ私も愛されるのだ、と。

引用元:「嫌われる勇気」pp68-69

 僕は自分に自信にもてないけれども、人とかかわること自体は好きなので正直、序盤の主張は納得いきませんが、自分を嫌うことが他者に拒絶された時の理由づけになるという主張には共感しました。

でも対人関係で傷つかないなんてことはありません。

アドラーはこういいます。

「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」

いたってシンプルですが、極論すぎます…

そして

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」

とまで断言します。

だから、他者がいなくなれば、対人関係もなくなり、悩みは消えるといいます。

劣等感について

みなさん劣等感を感じることはあると思います。

しかしみなさんが周りより劣っていると考えるものは本当に劣っているのでしょうか。

ある事実について、自分で負の意味づけしているだけなのではないでしょうか。

青年 つまり、われわれを苦しめている劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと?

引用元:「嫌われる勇気」pp76

何度も出てきますが、要は捉えようです。自分のコンプレックスだと思ってきた事実をどうとらえるかということです。

そしてその主観的な解釈は、自分の手で変えることが可能です。

例えば低身長について考えてみましょう。

低身長を劣等感に感じている人は多いと思います。しかし冷静に考えてみてください。低身長であることが劣等性を持っていますか?低身長というのは、他者と比較するから低いのであり、その身長そのものに劣等性は何もないのです。解釈の問題です。低身長だと相手に警戒心を与えずにリラックスさせることができると解釈することだってできるのです。

周りは敵じゃない

哲人 たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争の中に身を置いている人は心の休まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、常に勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。

引用元:「嫌われる勇気」pp96

友達をすぐライバル視してしまう僕は良くない傾向ですね…

相手を敵だと思わずに仲間だと思いましょう。

哲人 …それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。しかし、ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者。それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。

引用元:「嫌われる勇気」pp99

他者の幸せ₌私の負け
という構図は自分はしがちですね…

みなさんも他人の幸せ聞いて、なんか負けたように感じられる人はいるのではないでしょうか。

人生のタスクについて考える

アドラー心理学では「行動面の目標」「心理面の目標」の二つを掲げています。

行動面の目標

・自立すること

・社会と調和して暮らせること

心理面の目標

・私のは能力があるという意識

・人々は私の仲間であるという意識

※心理面の目標は行動を支えるものとしての位置づけ

そしてこれらも目標を達成するために「人生のタスク」と向き合う必要があります。

人生のタスク…ひとりの個人が社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係のこと

・仕事のタスク…仕事関係における対人関係

・交友のタスク…友人関係

・愛のタスク…恋愛関係と親子関係

友人関係について哲人はこう述べています。

哲人 …友達は多いほうがいいと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。これは愛のタスクともつながる話ですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp115

SNSの普及で浅いつながりが増え、友達の数(フォロワー)が一種のステータスになっている風潮がある気がします。
(僕自身も普通にSNSのフォロワーの数をステータスのように思っちゃいます)
これを機に友達との関係の距離と深さを見直してみましょう。

他者の課題を切り捨てる

承認欲求を否定する

アドラー心理学では、承認欲求を明確に否定します。

哲人 われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

……他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。

引用元:「嫌われる勇気」pp135

どういうことかわかりますか?
哲人はこのように説明しています。

哲人 承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。

……意外に思われるかもしれませんが、カウンセリングを受けに来られる相談者に、わがままな方はほとんどおられません。むしろ他者の期待、親や教師の期待に応えようとして苦しんでいいる。いい意味で自分本位に振る舞うことができないのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp136,138

承認欲求を得ようと周りの目を気にすぎて、自分らしく生きれないということです。

課題の分離

ここで僕が一番皆さんに伝えたい、課題の分離という考え方を紹介したいと思います。

課題の分離はホリエモンさんも支持している考え方です。

https://diamond.jp/articles/-/56917

課題の分離をするにあたって大切になってくるのはまず、「それは誰の課題なのだろうか」と考えることです。

そして、それが、自分の課題なのか、他者の課題なのかを分けて、他者の課題には一切踏み込まないようにするというのが、課題の分離という考え方のコアとなる部分です。

順を追って説明します。

まず、課題の分けですが、その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰なのかを考えます。

哲人 …たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

青年 誰の課題なのか?

哲人 子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。

哲人 勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp140

僕たちが無理やり「他者の課題」に踏み込んで、解決しようとしてはいけません。あくまで、「自分の課題」は自分で解決させるようにしないといけません。

自分の課題か他者の課題かを明確に分類し、他者の課題は思い切って切り捨てましょう。

哲人 …一方で、その選択について他者がどのような判断を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。

引用元:「嫌われる勇気」pp147

この考え、めっちゃ重要です。(特に周りの評価が気になって仕方ない人!!)

青年 相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。先生はそうおっしゃるのですか

哲人 分離するとは、そういうことです。あなたは、他者の視線が気になっている。だからこそ、他者からの承認を求めてやまない。それではなぜ、他者の視線が気になるのか?アドラー心理学の答えは簡単です。あなたはまだ、課題の分離ができていない。本来は他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思いこんでいる。

引用元:「嫌われる勇気」pp147-148

これは「嫌われる勇気」の中でも実践しやすい考え方だと思います。僕自身も部分的にこのマインドを取り入れていますが(やっぱり完全に取り入れるのは難しい…)、こう考えるだけでもなんだか昔よりも胸を張って生きていけてる気がします笑
いい意味で他人の視線を気にしないようになりました。他人がどう思おうとそれは僕の課題じゃないですし。
みなさんもぜひ取り入れてみてください!!

自由とは

哲人 他者から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとって、きわめて自然な欲望であり、衝動です。近代哲学の巨人、カントはそうした欲望のことを「傾向性」と呼びました。

引用元:「嫌われる勇気」pp161

当たり前ですよね。普通誰もが嫌われたくないという感情を持っているはずです。

しかし、「傾向性」に従った生き方は自由と呼べるのでしょうか。

そんな生き方は、窮屈ですよね。嫌われたくないという欲望と向き合っているのは不自由な生き方です。

哲人 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。

引用元:「嫌われる勇気」pp162

またかなりぶっ飛んだ意見が出てきました。

哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところで本当の自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp163

嫌われることを恐れないことこそが大切なのです。

(あくまで好くか嫌うかは他者の課題であり、あなたの課題ではないから。)

ここで補足しておきますが、相手に嫌われないように努力すること自体は全然ありだと僕は思います。(アドラー流にいえばそういう行為は承認欲求から来ていて、他人の人生を生きることになると言われそうですが…)
でも、どうやっても相手から好かれなかったからといって変に引きずっても仕方ありません。
あらゆる人から好かれるなんてことはほぼ不可能ですから。

世界の中心はどこにあるのか

「わたし」にしか関心がない

哲人は自己中心的というのには、一般的に言われるのに加えて、もう一つあるといいます。

哲人 …じつは「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的なのです。

青年 なぜです?

哲人 承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?…こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、自分しか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp183

他人に関心を持つのではなく、他人から自分がどうみられるのかに関心を持っているという点において自己中心的だということです。

だからこそ「自分への執着」を「他者への関心」へと切り替えていかないといけません。

では、なぜ自己中心的ではいけないのでしょうか?

哲人はこういいます。

哲人 …しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまで共同体の一員であり、全体の一部なのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp185

自己中心的な考え方だと、どうしても自分が世界の中心だと考えてがちです。

(承認欲求なんかもそう。みんなが自分を見ていると勘違いをしている。)

しかしあなたも私も世界の中心ではないのです。

大きい共同体への意識

我々は世界の中心ではなく、個々に宇宙という大きな共同体の一員なのです。

なぜ大きい共同体を意識するのでしょうか?

哲人 くり返しになりますが、われわれはみな複数の共同体に所属しています。家庭に属し、学校に属し、企業に属し、地域社会に属し、国家に属し、といったように。……

…では仮に、あなたが学生で「学校」という共同体を絶対視していたとします。つまり学校こそがすべてであり、わたしは学校があるからこそ「わたし」なのだ、それ以外の「わたし」などありえない、と。……

…このとき、学校こそがすべてだと思っていると、あなたはどこにも所属感を持てないことになります。……

…しかし、ここで注目してほしいのは「もっと別の共同体があること」、特に「もっと大きな共同体があること」なのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp192-193

いま、あなたの属している共同体に対して辛い思いをしているのならば、無理してそこに固執する必要はありません。もっとほかの「あなたとわたし」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体が必ずあります。

「横の関係」を大切にしよう

「共同体感覚」へ進むため、互いに強調しあい、協力し合うような関係になるためにはどうすればよいのか。アドラーは横の関係の大切さを説いています。

・横の関係…対等な関係

・縦の関係…上下関係

アドラー心理学では横の関係をつくるためには、

叱ってはいけない、ほめてはいけない

という立場をとります。

ほめるにしろ、叱るにしろ、「能力のある人が能力のない人に評価を下す」という側面がどうしても存在します。そうすると必然的に縦の関係が生まれてしまいます。

そもそも他者の課題に立ち入ること自体、縦の関係でとらえてる証拠だと哲人は言います。

哲人 …それでは、なぜ介入してしまうのか?その背後にあるのも、実は縦の関係なのです。対人関係を縦でとらえ、相手を自分よりも低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思いこんでいる。

引用元:「嫌われる勇気」pp200

ではどうすればよいのでしょうか。

哲人 ええ。いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと率直な感想や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

引用元:「嫌われる勇気」pp204-205

「いま、ここ」を真剣に生きる

自己への執着を他者への関心に切り替え、共同体感覚を持てるようになるためには次の3つのことが必要だと言います。

自己受容

他者信頼

他者貢献

自己受容

まず、自己肯定ではなく、自己受容をしましょう。

哲人 …自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのまま受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自ら嘘をつくものではありません。

引用元:「嫌われる勇気」pp227

欠点のないの人間なんていないので、欠点を積極的に認めましょう。それも含めて自分なんだと。これを「肯定的なあきらめ」といいます。そして、「変えられるもの」と「変えられないもの」をしっかり見極めましょう。「変えられないもの」を変えようとするのは不毛なことなのです。

他者信頼

哲人 …対人関係の基礎は「信用」ではなく「信頼」によって成立しているのだ、と考えるのがアドラー心理学の立場になります。

引用元:「嫌われる勇気」pp231

ここで大事になってくるのが、他者を信じるにあたって、一切の条件を付けないことです。

信頼とはそういうものです。信用に足るような客観的根拠がなかろうと信じるのです。

確かに無条件に信じていたところで相手に裏切られるかもしれません。

しかし、裏切るか裏切らないかを決めるのは他人であり、それは他者の課題です。

哲人 …あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp233

このことについて、哲人は浮気を例に説明しています。

哲人 …たとえばあなたが、恋愛関係において「彼女は浮気をしているのかもしれない」と疑念を抱いたとしましょう。そして相手が浮気をしていると躍起になる。結果、どうなると思いますか?

青年 さあ、そんなものは状況次第でしょう。

哲人 いえ、いずれの場合も山のような浮気の証拠が見つかります。

青年 はっ? なぜです?

哲人 相手の何気ない言動、誰かと電話で話しているときの口調、連絡がとれない時間。疑いの目をもって見れば、ありとあらゆることが「浮気をしている証拠」に映ります。たとえ事実がそうでなかったとしても。…

信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp234-235

妙に説得力のある例ですよね。確かに相手を常に懐疑の目で見ていては、疲れますし、いいことはありません。(そもそも根拠もなく疑うのはリスクが高い!まあ僕自身もよく根拠もなく人を疑ってしまうけど…)

他者貢献

共同体感覚を得るために、自己受容、他者信頼に続いてやるべき最後のことが、他者貢献です。

哲人 仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。それが「他者貢献」です。…

…他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません。むしろアドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、「社会に過度に適応した人」であるとして、警鐘を鳴らしているくらいです。そして思い出してください。われわれは、自分の存在や行動が共同体に有益だと思えた時だけ、つまりは「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときだけ、自らの価値を実感することができる。そうでしたね?つまり他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp238

結局は、自分のために他者貢献をするのです。

幸福とは

哲人は人間にとっての最大の不幸は、自分を好きになれないことだといいます。

これを解消するためには、「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いをあげています。

いわゆる、他者貢献です。

哲人 …この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわないのです。…

…「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。…

…すなわち、「幸福とは、貢献感である」。

引用元:「嫌われる勇気」pp252

しかし注意しなければいけないのが、承認欲求を通じて得られた幸福感には、自由がないということです。
他者からの承認はいらないのです。

普通であることの勇気

アドラー心理学が大切にしているのが「普通であることの勇気」という言葉です。

「特別な存在」になることを目的に生きている人って、一定数いると思います。
(いつも言っていますが、僕自身も「特別な存在」になりたいという強い思いが心の底にあります。)
でもそもそも特別になる必要があるのでしょうか?

そして「特別な存在」となるためには、それにふさわしい「高邁な目標」(₌特別な存在になるにふさわしい、大きな理想や目標)が必要になってきます。

アドラー心理学では、このように人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」でとらえていると考えます。

そして、アドラー心理学ではそうではなく、人生を「点」の連続だと考えます。

哲人 線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なんだと考えてください。…

…線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。…

…「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。…

…もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。

引用元:「嫌われる勇気」pp264-265

「いま、ここ」を真剣に生きる。ただそれだけです。

哲人 過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

引用元:「嫌われる勇気」pp271

まとめ

だいぶ長くなってしまいました…

この記事を書くにあたって、もう一度『嫌われる勇気』を読み返しましたが、やはり実践するのは難しいなと再認識させられました。

今回は僕の解釈のもとで、話を進めていきましたが内容の捉え方は千差万別だと思います。

みなさんの是非一度読んでみて、この本を自分自身で消化してみてください!

2020/7/21

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